2013/05/21

<กระชับพื้นที่>หรือ<ล้อมฆ่า ณ ราชประสงค์>



<包囲区域を狭めていく><ラーチャプラソンにて包囲壊滅>

2556年5月19日はラーチャプラソンでの赤服集会が鎮圧されて3年目になる。民主主義を望む国民は赤服集会に参加して民主主義を踏みにじったクーデターそしてクーデター以降に選挙を経ずにできたアピシット民主党政権に反対して国会解散を要求したがアピシット政権と民主党は何を考えたのか実弾とスナイパーを使って集会を壊滅させようとして100人の死者と2,000人の負傷者を出した結果になった。これまでのタイの歴史で何度かおこった集会鎮圧との大きな違いは、以前は恩赦という形で曖昧に終わったのが、今回は弾圧する側とされた側が司法の場で裁かれることになったことである。

2516年10月14日の朝から15日の夜にかけての騒乱での死者は77人で責任者であるタノーム・ギティカジョーン元帥は国外逃亡した。2519年10月6日の朝から午後にかけての騒乱では46人が亡くなり、夕方にはクーデターが発生した。2535年5月18日の騒乱は死者数が40人で行方不明者が多数である。責任者であるスジンダー・クラープラユーン大将は一切の公務から退きソーイラノーンの家でおとなしくすることになった。2553年4月10日から5月19日までの39日間の騒乱では100人が死亡して2,000が負傷するという結果になった。タノーム・ギティカジョーン元帥とスジンダー・クラープラユーン大将の両人はなんとか責任をとって公務から退き恩赦をもらったようであるが、2553年の責任者アピシット民主党党首は2554年7月まで政権を続けた訳であるが、この違いは集会側には黒服武装集団がいて彼らが集会に参加している民衆を殺害したと集会はテロリストが主催したもので19日の集会解散後に起こった各地での火災を<เผาบ้าน เผาเมือง>家を燃やして国を燃やすという標語が明らかなように一切の責任を集会主催者である赤服集団になすりつけたことであろう。この集会を鎮圧したアピシット政権は騒乱後も政権を続け独自の調査委員会を立ちあげ真実を探り出そうとしたが、反対に真実を隠す結果になり裁判が真実を少しづつであるが暴きだしてきているようである。

まずは<เผาบ้าน เผาเมือง>の象徴であったセントラルワールド放火の容疑で捕まった赤服が無罪になり、保険を請求する民事裁判では赤服集団はテロリストではないと言明している。また100人の死者の司法解剖裁判は8件の結果が出て14件が裁判中で残りは検事局で捜査中だということである。では黒服武装集団はどうなったのかだが、鎮圧時には鎮圧する側としては黒服を壊滅するのが当然の筈なのだが、一人として逮捕されるか負傷した黒服がいないところを見るとおそらく初めからいなかったのだろう。一体いつ頃からソーオーチョー(非常事態対策本部)が黒服集団-テロリスト-<เผาบ้าน เผาเมือง>で集会を弾圧する口実にしたのか、またそれにより軍に正当性を与え実弾とスナイパーを使ったのはどうしてなのか、真実はアピシット、ステープ裁判で出てくるのだろうか、今のところ3人を殺害する指示を与えたという罪状を背負った二人であるが、これからも増えていくし残りの人生は裁判の連続ということになると思うが、犠牲者および国民に陳謝することはあるのだろうか疑問である。


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